テレビの前に座っている。画面の中で、ある人が犯人として映し出される。私はその人に会ったことも、話したこともない。しかし気づけば「あの人はそういう人だ」という確信が、私の中に生まれている。
これは一体、何なのだろう。
私たちは「現実」を見ていない
仏教の唯識(ゆいしき)という考え方がある。唯識とは「すべては識(しき)のみ」という意味だ。私たちが目で見て、耳で聞いて「現実だ」と思っているものは、実は自分の心が作り出した像にすぎない、という教えである。
たとえば同じ夕焼けを見ても、悲しい気持ちの人には寂しく見え、嬉しい気持ちの人には美しく見える。同じ「現実」を見ているはずなのに、人によって全く違うものが映る。これが唯識の言う「識が作る世界」である。
さらに唯識では、私たちの心の奥底に阿頼耶識(あらやしき)というものがあると説く。これはいわば「心の倉庫」だ。日々の経験や情報が種のように蓄積され、それが私たちの物の見方を知らず知らずのうちに形作っていく。
テレビで繰り返し流れる「あの人は犯人だ」という映像と言葉は、この阿頼耶識に深く刻み込まれる。やがてそれは、まるで自分が直接見て確認した「事実」のように感じられてしまう。
龍樹の空観――「確かなもの」など何もない
インドの仏教哲学者・龍樹(りゅうじゅ)は、さらに根本的なことを言った。「すべてのものは空(くう)である」
空とは「何もない」という意味ではない。「固定した実体などない」という意味だ。人は縁(えん)によって生きている。様々な出来事・環境・人間関係が絡み合って、今のその人がある。「犯人」という一面だけで、その人の全てを語ることなどできない。ましてや、テレビで見ただけの像で。
冤罪はなぜ起きるのか
私たちは見ていない現実を、見たように信じる。阿頼耶識に刷り込まれた像を、事実として扱う。そして「あの人は犯人だ」という固定したレッテルを、疑うことなく貼り続ける。一人の人間の人生が、「見ていない人々の確信」によって奪われていく。
「わからない」という自覚を持つこと
「どこまでわからない」という自覚。これが唯識の出発点であり、龍樹の空観の核心でもある。私も凡夫である。テレビを見て、知らず知らずのうちに誰かを裁いている。その自覚を持ち続けること。「私はその現場を見ていない。私がそう認識しただけだ」という一歩の立ち止まりが、冤罪という悲劇を少しでも減らす力になるのではないだろうか。
仏教は2500年前から、人間の認識の限界を問い続けてきた。その問いは今も、色褪せることなく私たちの目の前にある。